祝福

11月3日 大阪国際会議場メインホール

まもなく始まろうとする後藤真希のライブ会場に僕はいた。前々から行きたいと思っていたがなかなか機会に恵まれず、ようやく巡ってきたのがこの日だった。

わくわくする心がはじけそうになった瞬間、幕はあがった。ライブがいよいよ始まったのだ。否が応にもテンションは高まる。さあ、行くぞ!と気合いを入れてみる。しかし、何かが違っていた。

いいようのない違和感が僕を襲った。ステージ上の後藤真希を客席の観客が作る空間の中で僕は一人浮いているような気がした。僕は果たしてここにいていいのだろうか、そんな疑問がふつふつと湧いてきた。

しかし、やがてライブが進むにつれこの違和感は解消され、彼女のパフォーマンスを堪能することができた。クールでかっこいい彼女、キュートでかわいい彼女の両面を感じ取ることが出来たし、ボーカル、ダンスなどのレベルの高さも十分に感じることができた。さすがに評判の高さだけはあるという内容だった。

なにより、幕が下りてもやまない声援がこのライブの充実を示していた。充実したライブを堪能できて心からよかったと思う。

ただ、最初に感じた違和感が引っかかるのも事実だ。この感覚はなんなんだろうと考えているとき、ふと昔の記憶が僕の脳裏によみがえってきた。

それは僕が中学生の頃の出来事だった。僕が通っていた中学校はカトリック系のミッションスクールだった。別に、僕自身はキリスト教と縁もゆかりもないが、学校の性格上、宗教の授業があったり、ミサに参加する機会もいくつかあった。

その中で、日曜に教会で行われているミサに参加する機会があった。司祭が厳かに式をとりしきる。聖書を朗読し、聖歌を歌ったりした後、最後にあるのが聖体拝領の儀式。

ミサの参列者が司祭の前に並び、順番にキリストの血である葡萄酒と肉であるパンを受け取る。ただ、聖体を拝領できるのは洗礼をうけた信者のみであり、そうではない者は、司祭より祝福をうけることとなる。信者とそうでないものの間には明確な区別があるのだ。

同じことが後藤真希のライブにも言えるような気がする。彼女の血と肉を与えられ、本当ライブのすべてを感じ取ることができるのは選ばれた信者のみ。そうでないものは、祝福をうけるのみ。

僕は彼女に祝福を受けたが、血と肉は分け与えられなかった。その帰依の度合いによって、歓喜の度合いは明確に区別される。それは一種のヒエラルキーである。そして、そのヒエラルキーを無意識のうちに感じ取ったからこそ僕は違和感を感じたのだとわかった。

もちろん、ライブの価値をなんら貶めるつもりはない。ライブ自体は最高のものであることは間違いないだろう。

ただ、どうもひっかかるのだ。彼女がもう一段高いステージに立つには、ヒエラルキーは障害でしかない。広く一般を相手にするには壁があってはいけないのだ。

彼女のポテンシャルからすれば、もっと高いステージにたてるはずだと僕は思う。そのためにはどうすればいいのか。その答えは、まだわからない。それは、彼女自身が自分で見つけ出すしかない。

そして、その答えは、そう簡単に見つからないだろう。だけど、いつか彼女が見せてくれるであろう回答を僕は楽しみにしたいと思っている。